自分史人生双六とは
松竹新喜劇の名優・藤山寛美氏の演目「人生双六」をご存じの方も
かなり少なくなっているかもしれませんね。
藤山寛美氏亡き後、最近では笑福亭鶴瓶氏が主演を務められていたように記憶しています。
機会があらば、ご覧になってくださいませ。
人生は、双六の盤面に自らが立つように、サイコロの目に翻弄されます。
振ったサイコロの目によって、良いことがあったり振出しに戻ったり、思わぬアクシデントに苛まれたり。
私の好きな話に、
「人は生まれた刹那に手を開く。そして静かに手を握り締めて拳を作り、死んでゆく」
というものがあります。
ふと思うのです。
人は、サイコロを一つ握りしめて生まれ、その瞬間に自分のサイコロを世に放つのだと。
そして、自分の放ったサイコロを握りこんで、その幕を閉じるのではないかと。
起こることのすべてが必然だと聞きます。
確かにそうかもしれません。
しかし、思わぬアクシデントに見舞われたときに、
とてもではないけれど「必然だから」などとは思えません。
「なんでこんなことになっちゃったのかなぁ」と、ただただ立ちすくむばかりです。
けれど、「大したことがなかった私の人生」も、双六として書き起こした時に気が付きました。
良いことが起きたマスをピンクに、悪いことの起きたマスを緑にしてみたのですが、
これが案外、バランスが取れている。
悪いことだと思っていたことが、良いことにつながる動線であったり、反対も然り。
そして、私の気持ちの中に、
「なんだ、何をか況や、案外いい人生じゃないか…」と思えたから不思議です。
団塊の世代の方々が第二第三の人生をスタートさせるその時期に、自分史ブーム到来の兆しが見え始めました。
これはご家族にとっては、とても助かることです。
私も、もはや両親ともに他界した年齢ですが、「親のことって、知っていそうで知らなかった…」と愕然としたものです。
自分史として残してくれているとありがたかったのにと思わぬでもありません。
が、思ったよりはブームは噴かず、なぜだろうかと考えた挙句、私なりの一つの結論に達しました。
自分史を書くとことは、そこそこの文章力も要されます。
二の足を踏む…という方も、少なくありません。
書きたくても、書けないのです。
では、双六だったらいけるのではないか…。
自分の経験も踏まえ、そう思いついたのが最初です。
いざ、ワークショップをしてみると、「絵を描く」「構成する」ということも、
やはり文章と同じく、敷居の高いものなのだと痛感しました。
なかなか取り掛かれずにいるワークショップの参加者に、チラシや雑誌などを切り抜いて張るコラージュの方法をおすすめしました。
すると、皆さんが活気づいたのには、こちらが驚かされました。
そこから回想法などを含め、認知症予防に良いとされている防止策を気にかけてみると、
その要素はすべて双六制作の中にあるではありませんか。
そしてどんな人生も、ご自身が思っていらっしゃる以上にステキなものでした。
文章にしようとすると、過度に美化してみたり、巧く表そうという、いわゆる「色気」が働いてしまいます。
そこが双六となると違います。
事実を並べてゆくことに終始し、そこに嘘や誤魔化しが介入する余地は、文章のそれと比べ、ごく狭くなります。
これがまたお一人お一人の歩んでこられた道の美しさとなります。
1枚の双六版は、楽し気に動き始めるのです。
「ご依頼いただいて人生双六を描く」自分史人生双六の発想は、
「ご自分自身で双六版をお創りいただき、私たちはお手伝いをする側に徹しよう」と変わってゆきました。
そんな時でした。
とある大学から、「今年も諸学生に講義をしていただきたい。」とのご依頼を受けました。
下の画像は、私自身の自分史双六です。
嬉しかった出来事のピンクのマスとちょっと悲しい緑のマスは、丁度いい雰囲気で並んでいるものでしょう?