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双六の歴史1

絵双六の歴史

江戸時代に日本独自の発展を遂げた絵双六は、様々なマス絵で覆いつくされた双六盤です。

まず印刷の歴史について触れておきましょう。
種子島の鉄砲とともに活字が持たされたルートと、朝鮮から伝わったルートがありますが、銅活字による活版印刷術が日本にもたらされました。
中国や朝鮮はいち早く木活字を生み出し、日本もまた木活字を誕生させました。
金属の活字よりも木活字の方が扱いやすく、明治時代に近代活字印刷が発展するまでは主力の印刷技術となりました。

徳川家康は、幕府の体制をより強固なものとするために、官学に儒教を取り入れることを推し進めました。
それには印刷技術の発展は不可欠であり、技術は足早に進歩しました。
こういった地盤固めが、後の江戸時代300年の安泰を生み出すこととなったのです。

この平和な江戸時代。

生活の安定がもたらされますと遊ぶ余裕が生まれます。
庶民のニーズに「楽しむ心を満たすもの」が加わりました。
印刷技術の向上は、手描きでしかなかった絵を大量に印刷することを可能にし、大量生産は価格の引き下げることも可能にしました。それまでは高嶺の花であった絵が、庶民にも手が届く時代となったのです。

多くの新進気鋭の絵師たちは、そんな環境の下、様々な分野に挑戦できるようになりました。
絵双六も、そんな挑戦のひとつです。

北斎や広重など、世界中に名をひびかせる江戸の絵師たちは、技量を尽くして双六を描きました。
今の時代にも多数残されています。
となれば、誰しも興味が湧いてくるものです。

どのような絵双六が人気を集めていたのか、お話ししましょう。

様々な娯楽がありましたが、特に人気が高かったのが芝居です。
今に名が伝わる人気役者を輩出しました。
誰もがその姿を留めておきたいと渇望し、絵師たちは競って役者の姿を書き写しました。

それが浮世絵による役者絵です。
今でいうプロマイドのようなもので、飛ぶように売れました。

次には芝居の演目に注目が集まりだします。
登場する役者や舞台内容をイメージできれば広告になり、客足が伸びる効果が期待できます。

もっと効果的な宣伝方法がないだろうかと考えたのでしょうか。

双六風の芝居広告が生まれました。
双六の流れは、芝居の演目の内容紹介にもマッチしています。
次第に芝居の広告兼プログラムとして、双六が定着してゆきました。

双六の振出から上がりを目指すスタイルは、旅にも似ています。
江戸時代の広告代理店ともいえる版元のアイデアマンは、「旅」にも着目しました。
版元は、ブームメーカーでもあったのです。

江戸時代、旅は庶民の憧れでした。
住んでいる土地を離れることはそうそう許されることではありません。
お伊勢参りに一度だけでも行ってみるのが夢だ、という庶民も多かったことでしょう。
そんなニーズに応えて旅双六でが登場しました。
美しい風景と宿場町が描かれ、旅した気分を味わえる双六は、旅のガイドブックとしての役割も果たしたのです。

今でも大人気のグルメ情報は、江戸の庶民にとっても大きな関心事でした。
どこそこには旨い蕎麦屋がある、饅頭はこの店、という実用グルメガイド的な双六も人気が高かったようです。

現在でも有名な店の名が双六に載っていたりということがよくあります。
老舗の底力を感じさせるものです。

そういえばミシュランガイドも、タイヤメーカーが「車に乗った旅」に皆を駆り立て、
どんどんタイヤを摩耗して、どんどん買ってくれればいいなという、画期的な広告手法によるものでしたね。

今も昔も変わらぬ人気の題材もあれば、今とは感覚が違うものもあります。
双六のテーマは、その時代時代の背景を映し出します。

今の時代でも怖い話が大好きな子どもたちに人気の妖怪双六は、江戸時代には大人に大人気でした。
玉の輿を夢見る女の生き方双六は、今の時代とは少々感覚が違うかもしれません。
女性にも多くの選択肢が与えられる時代となった今では、幸せな結婚ばかりが女性の幸せではない!といった声も聞こえそうです。

戦に必需の兜も、平和な時代だと着用の仕方を忘れかねません。
江戸時代には戦乱の世は遠く、しかし「武士たるもの」という意識は残っています。
学習のために着用方法を順に追う双六が作られたのは、そのような背景にあるのかもしれません。

実に様々な題材が双六として残されています。

双六は遊ぶだけではなく、広告や芝居のプログラム、ガイドブック、人生の教訓など、
楽しく学ぶ入口として効力を発揮したのです。

ニーズが高ければ、版元はどんどんお金を投じます。
より良いものをと、絵師たちをつつきます。
絵師たちもアイディアと技量を尽くし、今見ても感嘆するほどの双六を描きました。

絵双六の工夫や題材などは、江戸時代に全て出尽くしたにではないかと言われています。
私どもも何かもっと違うテイストで…と頭を毎回捻りますが、もうすでに先人が手を付けています。
海を渡ってもたらされた双六でしたが、日本独自の発展を遂げるに至りました。

絵双六の考案が江戸時代にあると思われていたのは、そのためです。

日本独自と書いておりますが、固有のものではありません。
双六は世界中に存在しています。

インドの「蛇とはしごのゲーム」やヨーロッパの「鵞鳥のゲーム」などが、有名な絵双六です。
ところが起源となると不確かになってきます。ヨーロッパでは16世紀出現説のまま研究が進んでないようです。
資料も少なく研究対象として重要視されなかったことが大きな要因かもしれません。


日本では文明6年(1474年)室町時代の公卿の日記に絵双六の記載が初めて登場します。
大納言山科言国の日記『言国卿記』には「浄土双六を写し進上すべしの由なり。即ち書き写しせしめ持参しめおわんぬ」との記述が残されています。

当時は盤双六が主流でした。
盤双六については、これもまた興味深く、別の項でお話しすることにいたしましょう。

『言国卿記』に「書き写し」とあることから、盤双六ではなく紙の双六だと考えられます。
1年後の文明7年にも「浄土シュコ六アソハス也」の記述があり、宮中で遊ばれていたと確認することができます。
出現や伝来が定かでなくとも、室町時代には絵双六が存在していたのです。

この時期は応仁の乱が勃発し、世は戦乱。
京の都も焼け、室町幕府は衰退の一途をたどっていたはずです。
その最中、宮中では浄土双六をあそばされていたと…。

世を憂い、祈りを込めてあそばされたのでしょうか。
それとも、成すすべなく、詮無きままに賽を振っていたのでしょうか。
宮中は、別世界であったのでしょうか。
今となってはわかりません。

双六の記述は、それからほぼ100年程、姿を消してしまいます。
今後、なにかしらの発見が、その間の双六の存在を明らかにしてくれるかもしれません。

室町幕府が滅び、戦国時代に突入、豊臣秀吉が関白となり天下統一を目指していた天正5年(1587年)、山科言経の日記『言経卿記』に「絵双六返しおわんぬ」との記述に再び登場します。

そして徳川家康の天下によって、庶民文化が花開いた平穏な江戸時代を迎えることになるのです。
浮世絵と共に絵双六も芸術の域にまで高められた作品が生み出されました。

双六は「遊び」です。
平和に時代だからこそ、人々は遊び心を持ち、絵双六などの「遊びの文化」が飛躍的な発展を遂げたのです。
平和の大切さとともに、文化を無用の長物として扱う傾向もある今の時代を、もう一度顧みなければと感じます。
平和だからこそ文化は発展し、文化が守られる世は平和であるという相互の関係を忘れてはならない気がします。
では、文化を無用の長物と扱うならば、今の時代は?と、自分の立つ足元をふと見るのです。

活版印刷が安価な印刷物を可能にした明治時代には、江戸の役者絵の香りを残しつつも、文明開化や近代化の様相が絵双六の題材となっていきました。

大正時代は資本主義が発展を遂げた時期です。
デパートや商店がお洒落な絵双六を広告として作るようになります。

また、印刷が安価となったことで、少年少女雑誌も登場し、絵双六は人気の付録となりました。
学習効果も期待され、子ども向けの絵双六の題材には、道徳を解く教訓じみたものも多く見られます。
この傾向は昭和にも引き継がれていきました。江戸時代の絵双六のイメージは薄くなり、子どもの遊びのイメージが定着したものと思われます。


絵双六はルールが簡単で年代を問わず一緒に遊べるゲーム性から、お正月に家族で遊ぶゲームとしても定番化していきました。

スピード感を持って制作にあたらねばならない時代となり、双六に「空きマス」(絵が描かれていない情報のないマス)が増え始めます。
そのイメージが強いのか、私どもが「双六をお持ちします」と先様に言えば、先様は「ふ~ん」とはおっしゃらないまでも、その表情や声色に「ふ~ん」という無関心がにじみ出ます。
いざお持ちすると、「想像と違いました」とおっしゃってくださいます。

これが私どもの双六の大きな特徴です。

70~100マス程度の中に、空きマスはほとんどありません。
情報を入れ込もうとすると、どうしてもそうなってしまうのです。
採算性を考えずに制作にあたることができたからというのが、大きな理由です。

では、江戸時代や明治・大正期の素晴らしい双六は、どの程度を適正価格としていたのか興味深いところです。
絵師にどれだけの手間賃が支払われていたのでしょう。

さて


戦時下になりますと軍国双六一色に染まるなど、絵双六は時代の風俗を写し出しました。
昨今では過去を知る貴重な資料として、また手軽な美術品として絵双六の価値が高まっています。
やがてそのゲーム性はテレビゲームの世界へ進出していくことになります。
「巧い」「下手」のテクニックが介入する余地もあり、大人も夢中になる仕上がりです。

私どもは常々、紙の上に立体感を持たせる構造が作れないかと思案しています。