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サイコロの歴史




人は生まれてくる。サイコロを一つ握って。
当団体、冒頭の一文です。サイコロで運命が決まる双六は人生に似ています。
どんな目が出るか分からない、思い通りにならない、ゴール目前で振出しに戻れというマスに入ってしまうこともあります。
そうなると大人も子どもも、大ショック。

双六大会をすると毎回一人、泣く子がでます。
「たかがゲーム、泣くほどのことじゃないでしょう」と慰めるお母さん。
「そんなに嫌ならやめてもいいのよ」と続けば、こちらがドキッとします。
「いやいや、それはいけないでしょう」とは口に出さず、振出しに戻った子の番が来たら、
にっこり笑って「さぁ、がんばろう」とサイコロを手渡します。
泣かなくても泣きそうな思いは大人も子どもも同じはず。

なんだか挫折経験に似ていると思いませんか。
嫌だからって途中でやめてはいけないのです。

サイコロを握っているかぎり、振って前に進むことができる、時には大逆転する可能性だってあるんです。
双六は山あり谷ありの疑似体験で、
現実世界と違うところは、参加者の条件は皆平等で、サイコロの出た目が勝敗を決めることです。
いい時も悪い時もあるんだなぁと知って、乗り越えるイメージを掴むチャンスなのです。
たかが遊びですが、遊びの中にこそ真理を学ぶ機会が隠れていると私は思っています。
 
神様が生まれる前にサイコロを一つ掌に握らせてくれます。
生まれ落ちた瞬間、掌が開いてサイコロが転がり落ち、あなたの人生が始まります。
一回休め,二つ進め、たとえ振出しに戻ってもサイコロを手放さない限り、また振って進めばいい。
行くべき場所に必ずたどり着くことができるのです。

これは、私どもが学校で自分史人生双六を作成するカリキュラムの冒頭で、必ずお話しする話です。
私の作った物語ですが、そうとも思えない部分があります。
サイコロの歴史を辿ってみると、神さまに行き当たるのです。



サイコロの出現は遥か昔、人が集団となって暮らし、自然を畏れていた時代まで遡ります。
天候や獲物を得る、生きるために選択をせねばなりません。時に生死を分ける事態に発展することもあるでしょう。
リーダーも決めかねた時、大いなる力にお伺いを立てるしかないと太古の人は思いました。
その手段として道具を使いました。それがサイコロのルーツであろうといわれています。

サイコロ的役割を果たす物は、国によって様々です。
木の棒や、石、加工された動物の骨などが世界中の遺跡から発掘されています。
それらを使って占い、出た目に一喜一憂しながら集団の運命を託してきたのです。
サイコロが示す偶然性は神の意志と思われていました。

しかしながら人間とは罪な生き物です。
その偶然性こそ遊びへの誘惑でした。
神と人との対話から、人間同士で富をやり取りする遊びにサイコロが使われ始めると、人々は我を忘れて熱狂しました。
偶然に富を得て幸せになりたいという欲望を射幸心といいます。射幸心を煽る遊びがサイコロを使った賭け事でした。

庶民には刺激的だったのでしょう。田畑を耕すことも忘れ、全てをかけてすっからかん。犯罪も増え治安悪化。
ところが今も昔も同じこと、貴族や身分の高い人だけは許されていたそうです。
庶民が働かなくなっては困るので、賭け事を禁止する御触れが何度も出されました。これも世界中同じこと、法律が施行された記録が残っています。
それでもやむことなく続き現代に至ります。賭け事のイメージが強いせいなのか、サイコロを対象とした研究が非常に少ないのは残念なことです。
では日本に目を移してみましょう。
サイコロを漢字で書くと賽子です。
賽の漢字、よく見かけませんか?
漢字の意味は「お礼まつり、むくいまつる、神から福を受けたのに感謝して祭る」となると、
お賽銭、賽銭箱ですね。
賽の目は、サイコロ状の角切り、料理用語です。
賽の河原、「一つ積んでは父のため~二つ積んでは母のため」を耳にしたことがあるでしょう。
この御詠歌は「賽の河原地蔵和讃」といいます。

親よりも先に亡くなった子どもの魂が集まる場所が三途の川の賽の河原です。
仏教では親より先に死ぬことは罪、悲しむ父や母のために石塔を立てなければ三途の川を渡ることは許されないのです。
一生懸命に作っても、出来上がる直前に鬼に壊され、また一から作り直すことを繰り返します。
あまりに可哀そうですが、最後にはお地蔵様が助けてくださるので、ホッとします。
江戸時代頃の俗信で、親の嘆きが続くと子の成仏も遅れる、涙を拭って笑顔をみせれば子も安心して三途の川を渡ることができますよという慰めから生まれたのかもしれません。
このようなことから、賽の河原は徒労に終わるという意味も含まれています。
 
賽の漢字を司る賽子の霊性を信じ、ご神体として祀る信仰も全国各地に残っています。
それが漁業に携わる人々に伝わる船霊信仰です。
新しい船を造る際に守り神や大漁祈願として神様を入れる儀式、ご神体のひとつとして、賽子二個が加わっているのです。

賽子の置き方も決められています。
天一地六五東西二南三北四。
船の舵になぞらえ縁起を担げば、
天一地六、表(おもて)三(見)合わせ、艫(とも)四合わせ(幸せ)、櫓櫂(ろかい)五と五と、中に二(荷)どっさり。

さて、語呂合わせ通りサイコロを2個取り出し平行に並べてみます。
一が上、六が下、正面が三で後方が四、両脇が五で内側に二をくっつけます。
なりません! そう、並べたらなるわけがないのです。二の対面は五なので、同じ方向。両脇が五と二になってしまいます。

実は、賽子には雌雄があるのです。
世界共通に流通されているのは雌サイコロ、雄サイコロはほとんどありません。なるほど儀式にはどうしても必要なのですね。
雄サイコロは一を上にして三を正面、左側が五、右側が二になります。なるほど、これなら作法通り、ご神体としてのペアが完成します。

さて、天一地六ですが、多くの人は一天地六の方をご存じかもしれません。
確かにいってんちろくの方がカッコよく聞こえますものね。
天一地六も一天地六もサイコロを意味していますが、一の下は六、良いことも悪いことも対となっているという解釈や、
南三北四と続くように一蓮托生ともとれます。任侠映画の台詞や演歌の歌詞でよく聞くことがありますね。

サイコロは六面体だけではありません。二十面体などもあります。
六面体サイコロのそれぞれの目の出る確率は六分の一と予測されていますので
ゲームや賭け事には六面体が用いられています。
サイコロの目を表す表示は丸だけではなく、数字、また浄土双六などは「南分身諸仏」と書かれていました。

『チコちゃんに叱られる』でも紹介されたようですが、サイコロの一が赤い理由は諸説ありますが分からないが正解。
サイコロや遊び方は残っていても詳しい研究資料が少なく、まだまだ解明されていない事がたくさんあるようです。

「サイコロは生きている」賭け事に精通している人から聞きました。
目が出るともいいます。
芽が出る。
生まれてくる前に握ったサイコロはその人自身のタネかもしれません。どんな目が出てもそこから芽が出て成長していきます。
山あり谷ありの人生、サイコロを振りながら進んでいく、手放さない限り必ず上がるのです。
だから諦めないで
若い人を対象とした自分史人生双六では、そんな思いを賽子に込めて、皆さんにひとつ手渡すことにしています。